加藤愼一さんのお便り

歴史散策「曽我の里を歩く」

曽我の里の地図
曽我の里の地図

上の地図をクリックすると拡大してみることができます。

平成24年2月21日

 2月の初旬の一日、天候にも恵まれてJR御殿場線の下曽我駅を起点に曽我丘陵の南斜面にある神社などの歴史を訪ねました。

*宗我神社

 由緒によると、奈良県橿原市曽我町の宗我都比古神社の神主宗我保慶が長元元年(1028)に創建とあります。

 現在の名前になる前には、宗我大明神、または小澤大明神と呼ばれたこともあるとのことです。

 入口にある御神木の欅は樹齢700年とのことで、この木には球状のやどりぎが数個下がっています。

作家の尾崎一雄は神社の神官の息子で、昭和12年小説「暢気眼鏡」で芥川賞を受賞、昭和53年には文化勲章を授与されています。

 神社の参道の入り口に碑が建っており、小説「虫のいろいろ」からの一説が刻まれています。(文章はここから見る富士山の変化を捕えていますので、興味のある方は文章系の検索を)

*法輪寺 

 開基は室町時代の延文3年(1358)に建長寺の高僧了堂素安によります。

古くは曽我氏の菩提寺であったと言われる天台宗の廬尊寺と称し、前記の和尚が臨済宗に改め、今の寺号になったと由緒にあります。

 本尊は釈迦如来、脇侍仏は普賢菩薩と文殊菩薩が安置されています。

 ここには曽我太郎祐信の位牌があります。

 この寺からの眺望も大変良い。(今回は冒頭にも書いた通り、曽我丘陵の南斜面を歩くのでどの場所でも眺めは良いです。高台にある城前寺からは大島が見えました。)

*阿弥陀堂

 神保厚宅の敷地内にあるので、了承が必要になります。

ここには曽我太郎祐信(石橋山合戦の時、平家方大将大庭景親の郎従の一人)とその妻(美人誉れの高いー某講師の弁)満江御前の木造が安置されています。

(彼女はこれが三度目の結婚になります)

 なお、神保氏は曽我氏の末裔になるとのことです。

*稲荷山祐信院城前寺

 先ずこの寺名の起こりは、曽我城(曽我氏)に関係ありとみます。

 地形的に見ても寺の前側は急勾配で落ち込んでおり、城郭の一角ではないかとおもわさせます。

 曽我氏の菩提寺あろうと言われており、ここからおそらく廃寺になったと言われている宗泉寺跡に建立されたものと想像されます。

 また、ここは曽我物語で入口に膾炙している曽我十郎・五郎兄弟の供養寺です。

 

 さて、曽我兄弟の仇討は多くの人々が知っている話なのですが、その中身を記録により調べて行きますと、〝逆恨みによる殺人”との見方もできないこともないのでは!!

それとこの事件は兄弟が殺された父の恨みを晴らすとのことですが、それは表面的なことであり、実体は富士の巻狩りを利用して頼朝の暗殺を仕組んだもので、その黒幕は北条時政ではないのか。実は弟五郎の烏帽子親は何を隠そう時政なのだから。

 仇討のため、陣屋に潜り込む際にもその奥深くに居るであろう仇を容易に探し出すことはできないと思われるので、案内人がいたと考える方が蓋然性が高くならないでしょうか。

 このような荒唐無稽な想像をしているのは我一人だけでしょうか、山口さんは如何でしょうか。

 

 血なまぐさい話ではなく、ロマンチックに行きましょう。

  ここから六本松峠を越えて大磯に至る古道は、曽我兄弟の兄である十郎が相模国山下(現平塚市山下)にある長者の娘【虎御前】とデートしたロマンスロードなのです。(虎御前の出生には、三説あるようです)

 虎御前は当時評判の美人で、二人は相愛の中として知られていたようです。二人は短い逢瀬の時、何を語り合ったのでしょうか。

 散策の終わりは、文学で締めくくることにしましょう。

 城前寺の前の小道を左方向に進むと、太宰治の名作【斜陽】の舞台になった家がありました。過去形で書いたのは理由があります。確か一昨年のことだと記憶していますが、火災により焼失しているからです。

 その家の名前は【大雄山荘】ここに疎開していた愛人の太田春子を太宰は訪ねて一週間ほど滞在したようです。この時の子供が太田治子さんです太宰は自分の一字(治)を取って子供の名前を付けたのだと思うのです。

 

 曽我の里は梅の里ですが、今回は早すぎたようです。昔、花と歌にあれば梅を指したと言われていますが、あのほのかな芳ばしい香りは残念ながら次の機会になりました。

近世にはいり、花と言うと桜になりましたが(この張本人は本居宣長といわれています。)私としては寒さの中にも凛として咲く梅の花が好きですね。

 

 さて私は大変な難問を答えなければいけないようですね。 

曽我兄弟の仇討の真相は加藤さんに言われてみればそのような気もします。確かに北条時政は烏帽子親だし、仇討の時の真夜中の嵐の闇の中に工藤祐経を探し出すことは大変なことです。

しかし私は歴史研究会でS氏が発表したことをうのみにして頭の中にしまいこみました。内容は以下のようなことです。

 

 曽我兄弟は 彼らの父、河津祐通(すけみち)は所領争いに絡んで工藤祐経に暗殺された。その後母親が再婚したため曽我氏をなのった。しかし兄弟はあけても暮れても亡き父のことが忘れられず、成人した後に遂に父の仇、工藤祐経を討って恨みをはらした。これは一般的に親孝行の手本とされている。しかし当時所領争いが多発し,どうやらむしろ被害者は工藤祐経であり、河津祐通を狙うだけの理由はあった。その意味では曽我兄弟の行為は逆恨みのようなものである。こう言ってしまえば美談は成り立たなくなってしまうので、祐経は悪者に仕立てられてしまったようだ。

 河津家、伊東家と工藤家はもともと親戚関係にあった。このころ所領問題が多く、工藤祐経の父親は死ぬとき伊東祐親(曽我兄弟の祖父)に幼い我が子祐経の将来を託してこの世を去った。祐経は成人し、京都に出仕した。祐経の上京中、彼の所領の管理を伊東祐親は引き受けるが、そのうち祐経の所領を横領してしまった。そこで祐経は無念やるせなく、狩猟に出たとき伊東祐親と、その子河津祐通(曽我兄弟の父親)を郎従につけ狙わせる。彼らの狙ったのは祐親であったが、彼は軽傷を負っただけですみ、息子の河津祐通(曽我兄弟の父親)が命を落とすはめになってしまった。こうしてみると非はむしろ祐親の方にあると言ってもよい。工藤祐経は親の仇であるが、祐経を悪人にしてしまうのも気の毒な人であったらしい。長く都で過ごしただけあって彼はかなりの文化人であった。静御前が八幡宮の神前で舞を舞った時、伴奏を受け持ったり、また人の接待役に応じている。彼が頼朝に信任されていたのも洗練されたセンスを持っていたからであろう。

 裏にはこのような事情があったにしろ、曽我兄弟にとってみれば父親を殺されれたのであるから、工藤祐経は親の仇であったのであろうと、私はそう思っています。

八王子・中原街道を歩く

平成23年5月14日

加藤愼一氏は膨大な立派なレポートをお寄せ下さいました。この欄には入りきりませんので横浜歴研番外編に掲載しましたのでそちらをご覧ください。

 

 

西相模の豪族中村氏の里を歩きました

平成23年5月13日

加藤愼一氏 

 

小田原市と二宮町の境界にある押切橋から県道松田・羽根尾線を北上して、最後は中村氏の館があったと言われている小田原市小竹にある【殿ノ窪】までのコースです。

このコースはほぼ中村川に沿った形になります。

途中、中村原という地名があります。地区の名からするとここが中村氏の本貫地と考えるのだが、記録には全く載ってない。

続いて山西地区になる。ここには竜禅寺の北東に城址があるが中村氏の舘とは断定されてないとのこと。

実は地名山西は、二宮町にもある。私の答えは今は二ヶ所に分かれているが、昔はこの近くにある川匂神社(相模国の二宮)の寺領であったと推測する。

新幹線の下を潜ると右側に白髭神社がある。

この神社は中村氏に係りがある。手短に話すと政子が病気になった時、ここに祈願するとすぐ平癒すると中村宗平が進言し、その通りになったという。

この神社は元は殿ノ窪にあったと言われており、もしかすると中村氏の舘の鬼門にあったのではと考えてしまいます。

そのまま北上し、小田厚道路の下を潜り坂呂橋に至る。そこから少し先の左側が本日のゴールになる中村氏の舘跡(初期の)と言われる”殿ノ窪”です。

戦国期の城ではないので掘割や土塁は見渡らない。その分迫力が無いと言えばないが。

 

以上が今回のコースの概要です。よかったら、また、空間飛行して下さい。

最後に私めの近況をお話しして終わりたいと思います。

ここ体調悪いです。梨の薬剤散布中に梨の枝と機械の間に首を挟まれまして、首が二重に回らなくなりました。(片方は、借金です。)

最近、とみに加齢に伴って起きてくるいろいろな不具合が実感されて悲しいですが、と言ってもどうなるものでもないですが……。

(私、この時期田植えになりそうでいけないかもね。)

私は又、加藤さんにメールの返信をしました。

 

また、空間飛行をさせてもらいます。今回は中村氏の館跡へスタート!! 

は~い押切橋があります。県道709号線を北上し、新幹線のガードをくぐります。地図には川の名前が書いてないのですが中村川というのですね。(中村氏の名と同じ)中村原という地名あります。白髭神社が見つからないので、今まで見ていたヤフーの地図からグーグルに代えました。あっわかりました。私は東海道線を見ていたようです。確かに新幹線のガードをくぐると白髭神社あります。北条政子は目の病気に悩まされたのですね。

 

大山の方にある≪日向薬師にも政子は眼病平癒を祈願≫したと覚えています。日向薬師も今は修復工事中のようでね。ひたすら北上し厚木道路の先に坂呂橋あります。そこから少し先の左側が本日のゴールになる中村氏の舘跡(初期の)と言われる”殿ノ窪”といいますが、『殿ノ窪』という地名は地図にはないのですが、秋葉神社や久成寺あたりのことですか。昔の館というのは南面に開けた土地をもつことが多いようですので。

 

 今度は航空写真で今来た道をもう一度眺めてみました。国道709号線に沿って家がありますが、昔はここら一帯は広い田んぼだったのでしょうね。航空写真で見るとまわりの景色もよくわかり、まるで歩いたような気分になります。
私も時間があったら歩いてみたいものです。その先一帯は土屋氏、岡崎氏の所領地ですよね。金目川一帯は歩きましたか?

 

 私は石橋山の戦いのあった、佐奈田神社に行ったことがあります。あそこは神仏混合神社でした。坊さんが延々と御熱心に真田義忠(余一)の講義してくださるのでお礼に5000円を奉納してきました。どうもあの坊さんはそれを商売にしているとか、あとから話を聞きました。

中原街道の終わりの部分を歩きました

平成23年3月18日

加藤愼一氏

 

趣味として古道歩きをしています。1月に中原街道の終わりの部分を歩きました。
前鳥神社(平塚市四宮)の北側に相模川を渡る神戸の渡しがあって、そこから中原御殿に続く古道があったようです。
今回はこの道を探して歩いてみました。
この辺りも都市化が進展しており、なかなか往時の面影を残す道は残っていません。
前鳥神社の西側に後北条時代の時、この家来であった杉浦氏の屋敷があり、街道はその北側を通っていたと、ものの本には書いてありますが、この辺りも都市化と国道129号線とにより、分断さてており、よく判りませんでした。
杉浦氏は、豊臣秀吉の小田原攻めの際に徳川軍と戦って戦死したとのことです。
この屋敷の周りには土塁が張り巡らせてあったとのことですが、現在は全く残ってなく、僅かに堀割の一部が残っていました。

屋敷跡と思しき所に付近の住民が祠と由緒書を立てています。
八王子街道(現129号線)を越えてさらに西方向に進むと真土神社があります。
ここで街道は、田村の渡し(平塚市田村)を渡ってくる中原街道と一緒になります。
この神社は小高い丘の上に建っていますが、この地盤が元々の高さとのことです。(周りは数メートル低くなっている)
この辺りは、相模湾が造った最後の砂岸段丘の終わりに当たっているため高くなっているとのことで、周りは少しづつ砂山を均してきているので低くなったとのことです。
うれしいことにこの神社の近くには少しの距離ですが、古道が残っていました。
でも、ここからゴールの御殿に至る道は、やはり都市化と、新道により分断の憂き目を見ておりました。
実は、ここを歩く前に平塚市の文化財担当者にコメントを求めておりますが、彼らにしてもよく判らないのが実態のようです。
ということですので、自分なりに歩いて、途中に一里塚がありました。一里塚にはお酢街道と銘打ってありますが、中原産のお酢は当時は有名品で、将軍の献上品になっていたそうです。
やっとゴールの中原御殿(現市立中原小学校)に着きました。
うれしいことに校庭の周りに土塁が残っていました。
私は、歴史に謎に満ちている、だからこそ面白いと思うのです。
真実の歴史は惨たらしいこともままあるとは思いますが、せめてそこにロマンを求めて自分なりに思いを巡らす(要するに自分勝手に物語を作ること)ことにあるのではと勝手に解釈しています。

余計なことですが私は加藤さんに次のような返信のメールを送りました。  

加藤さんのメールを見ていると面白いので、パソコンのトップ画面に加藤さんのメール文章と地図を二つ一緒に開いて文章を読みながら地図を追っていきます。
まるで私も古道を一緒に歩いているつもりです。
前鳥神社(私は以前相模の五之宮を探して回りました。二之宮が分からないのには大変困りました。やっとの思いで見つけましたが、疲れ果て前鳥神社だけはパスしてしまいました。しかし129号線を行くと前鳥神社の標示版がありますね。) 中原御殿というのがあったのですか。知らなかった。北条の家来杉浦氏の堀割がわずか残っているとのこと。四之宮西町交差点、私は地図を拡大して、見ています。相模川の支流なのか途中で暗渠化されたような川があります。杉浦氏の屋敷跡何番地あたりなのでしょうか。真土神社分かります。中原御殿は中原小学校にあるわけですね。中原小学校を探す。あ、小学校見つかりました町名が御殿で小学校の番地が8番地。ここが中原御殿。花水川が二つに分かれるあたりが御殿という地名になっていますね。以前ここらあたりを亭主と車で走ったことあります。分かりました。つまり前鳥神社からかなり西に歩いたわけですね。
有難うございました。一緒に歩いているようで楽しかったです。

 

後日の定例会の時、地図と下記の説明書を頂きました。地図と杉浦氏屋敷を追加します

 

杉浦屋敷

 小田原北条の末期には大真土小字四ノ域、通称杉浦屋敷、面積一町歩余りに幅3~4間の通称杉浦堀を囲らして住まっていた人に杉浦藤左衛門がある。

藤左衛門は小田原北条氏の家臣で豊臣氏の小田原攻めに際して進攻する徳川家康の軍勢と華々しく戦って、ついにこの地で戦死した。

 藤左衛門は余程住民に慕われていた人で戦死するとその首級を住民によって石筐に収められ小字六之域309番地に手厚く埋葬された。

これが後世追善供養のため松本半兵衛、伊藤三郎兵の両人が建立した石碑の存する二坪程の墓地は首塚である。

伝承として残るものは明王祠、鎧塚があり北側の窪地には池端杉浦堀、東には石高の多い武士特有の馬洗堀の伝承を残す。総合してみるとほぼ百間四方の角形の屋敷となり領主より屋敷をたまわっても自衛上堀、土塁を必要とした初期の屋敷形式である。

 

 下の地図の上にマウスを持って行くと手の形になります。手の形になったらクリックしてください。地図が拡大され見やすくなります。