鎌倉「永福寺(ようふくじ)跡の見学会

鎌倉三大寺社として、「鶴岡八幡宮」、「勝長寿院(しょうちょうじゅいん)」(焼失)及び「永福寺」があるが、この度、そのうちの一つである国指定史跡「永福寺」の跡(同市二階堂)に3つの堂の基壇(注)が復元された。これを機に平成25年1月25日(金)午後2時から鎌倉市教育委員会主催で初の見学会が開催されたので、横浜歴史研究会有志(12名)と共に参加をした。
(注)基壇とは、建物の基礎用に造られた壇のことである。(山川日本史小辞典・山川出版社)

見学状況

 見学会当日は、横浜歴史研究会の加藤会長をはじめ数名の方とJR鎌倉駅東口で待ち合わせをし、バス乗り場から大塔宮行バスに乗車し終点で下車する。ここから徒歩で10分位して会場に到着した。会場のある二階堂の地は自然豊かである。当日は天気晴朗なれども風強しでかなり厳しい寒さであった。しかし定刻30分位前にもかかわらず会場には300名程の見学者で溢れていた。15分前になり担当者から説明資料が配布されるとともに基壇の近く(15㍍位)に誘導された。

 現地は三方が小高い丘に囲まれた平坦地で、南側は開けている。鎌倉にしては広い土地といえる。また周辺には人家が何棟か存在している。3つの基壇は西側の丘を背に南北一列に並んでいた。基壇の脇には小型トラックやユンボが止めてあり、ヘルメットを着用した数名の作業員が作業中で、あたかも工事現場のような感じを抱いた。なお、担当者の説明の途中で作業員は引き上げていった。

     
 定刻前の会場の様子   木造製の基壇を前にして



 定刻になり主催者から挨拶がされたのち、見学者は3グループに分かれてそれぞれの担当者から場所を変えて説明を受けた。筆者のグループは、はじめに3つの基壇に面して左の基壇(阿弥陀堂)と中央の基壇(二階堂)の間で説明を聞き、次に左の基壇の左後方にある小高い見晴らし台のような場所から説明を伺った。眼下に永福寺全域がよく見渡すことができた。最後に右の基壇(薬師堂)と中央の基壇の間で説明があった。説明者が、分かりやすく親しみやすい態度で話をして下さったので理解しやすかったが、時折風の音にかき消されて聞き取れないこともあった。見学者は約2時間、吹きさらしの中で熱心に説明に耳を傾けていて関心の高さを示していた。

  

     
  熱心に説明を聞く見学者達  見晴らし台から見た永福寺の全域


永福寺の概要など

○ 永福寺は、『吾妻鏡』によると源頼朝が文治5年(1189)奥州藤原氏征伐で目にした平泉の毛越寺(もうつじ)や中尊寺に感銘して建立を思いたった。目的としては、義経や藤原泰衡をはじめ戦死した数万の将兵の怨霊を鎮めるためであったと伝えられる。

  これに対して、鎌倉市教育委員会の説明資料では、「創建時から仏堂に翼廊・中門・釣殿・庭園が造られ、都の寝殿造りの建物や庭園を彷彿とさせる華やかな住宅的な要素が組み入れられていました。このことから頼家・実朝を初めとする歴代将軍による花見・月見・蹴鞠などの、華やかな行事が境内で行われるようになって行きます。この華やかな行事を見ると、創建当初に目的とされた怨霊鎮護は感じられません。寺院と将軍家の迎賓館的な姿を併せ持った、京都や平泉とも異なる鎌倉の独自性を見ることができます。」とある。と言うことは、創建当初から目的が怨霊鎮護ではなかったのか、それとも表向きは怨霊鎮護としたが、本音は迎賓館的なものであったのだろうか。いずれにしても怨霊などに頓着しない頼朝の一面を垣間見たようだ。

 永福寺は、建久2年(1191)に着工し、翌3年11月に造営が終了したが、その壮大さは「絶妙比類無し」と言われている。 本寺は頼朝の権力の象徴であったのだ。

○ 永福寺は何度か火災があり部分的に延焼したが、その都度再建されたし大修理も行われた。
しかし、元弘3年(1333)鎌倉幕府が滅んだ後は寺勢が衰えた。応永12年(1405)に炎上したが、再建されることはなかった。『鎌倉年中行事』(享徳三年(1454))によれば近代永福寺回禄以後、「吉書始」に書かれなくなっている。(『鎌倉辞典』・白井永二著・東京堂出版)

○ 敷地面積はおよそ9㌶である。創建当時の伽藍(注1)は、中尊寺の二階大堂をまねた本堂と、脇堂の阿弥陀堂(左側)及び薬師堂(右側)の三堂を中心とし、さらに多宝塔、鐘楼、惣門、南門、僧坊、別当坊などが建てられていた。なお、三堂には複廊(廊下)、翼廊(注2)、中門、釣殿が造られ、三堂の前には、池が設けられ橋が架けられていた。その姿かたちは、浄土思想に基づく浄土世界を具現したものと言われている。
(注1)寺院の建築物の称  (注2)身廊と直交し、建物の左右に突き出した廊
 
 
   
         永福寺配置図(鎌倉市教育員会説明資料から転写)

○ 今後の予定としては、池と庭園を復元し平成27年度中に史跡公園として開園する計画とのことである。しかし、堂や橋は外観を示す資料がないことから再建しないとする。残念な気がするが、学術的見地からとすればやむを得ないであろう。
 なお、CGによる復元想像図が基壇左側の通路に掲示されているので、当時の永福寺の概要があらあら理解できる。

    
    永福寺復元想像CG(鎌倉市教育委員会・作成:湘南工科大学長澤研究室)



筆者の感想
今回の見学会に参加して得るものがあったと喜んでいる。筆者の感想の幾つかを列記する。

○ 鎌倉市教育委員会は、「基壇の公開により寺院のスケールを体感してほしい。」と言われていたようだが、確かに見学して永福寺の全体規模を体感することはできた。ただ、比類なきほど規模が大きいとは思えない。しかし、鎌倉の地形を考慮すれば大きい方に属することは事実である。

○ 復元想像CGを見ると確かに永福寺は壮大であり、またとても優雅な寺であることが分かる。ただし、あくまでも想像の域をでないことに留意する必要がある。

○ 永福寺には以下の特徴があると説明者が述べていた。
 ① 基壇が石製ではなく木製である。
 ② 3つの堂が、南向きでなく東向きであるあるが、これは地形の制約からではなくて意図的に行ったものである。
 ③ 3つの堂を複廊(廊下)でつないでいる。
 ④ 翼廊が付けられているが、3つの堂では今までに例がない。
  以上は、他との違いを意識して行ったもので、頼朝が権力を誇示したものであるという。頼朝は単に中尊寺をそっくり真似たのではなく、主張すべきところは主張していたことが分かる。

○ 永福寺は鎌倉の聖地であり、また、武家政権下の文(文化)を表しているとは説明者の言葉であるが、その様な視点があるのだと気が付かされた。

○ 三堂の中の「二階堂」の名称には違和感がある。脇堂は「阿弥陀堂」(左側)及び「薬師堂」(右側)と如来名を使用していながら、中央の本堂のみ建物が二階であるから「二階堂」である。中尊寺の二階大堂をまねたとはいえ、釈迦が安置されているとのことであるから「釈迦堂」とするのが本来であろう。「二階堂」は通称・愛称とすればよい。しかるに何故「二階堂」としたのだろうか。

○ 永福寺跡が平成27年度中に史跡公園として開園する予定とのことであるが、これで鎌倉の魅力の場所が1つ追加されることになる。歓迎すべきことである。(完)  
                        
                                           [文:木村髙久  編集:山口正枝]

平成25年1月25日

 

鎌倉三大寺社として、「鶴岡八幡宮」、「勝長寿院(しょうちょうじゅいん)」(焼失)及び「永福寺」があるが、この度、そのうちの一つである国指定史跡「永福寺」の跡(同市二階堂)に3つの堂の基壇(注)が復元された。これを機に平成25年1月25日(金)午後2時から鎌倉市教育委員会主催で初の見学会が開催されたので、横浜歴史研究会有志(12名)と共に参加をした。
(注)基壇とは、建物の基礎用に造られた壇のことである。(山川日本史小辞典・山川出版社)

見学状況
   見学会当日は、横浜歴史研究会の加藤会長をはじめ数名の方とJR鎌倉駅東口で待ち合わせをし、バス乗り場から大塔宮行バスに乗車し終点で下車する。ここから徒歩で10分位して会場に到着した。会場のある二階堂の地は自然豊かである。当日は天気晴朗なれども風強しでかなり厳しい寒さであった。しかし定刻30分位前にもかかわらず会場には300名程の見学者で溢れていた。15分前になり担当者から説明資料が配布されるとともに基壇の近く(15㍍位)に誘導された。

 現地は三方が小高い丘に囲まれた平坦地で、南側は開けている。鎌倉にしては広い土地といえる。また周辺には人家が何棟か存在している。3つの基壇は西側の丘を背に南北一列に並んでいた。基壇の脇には小型トラックやユンボが止めてあり、ヘルメットを着用した数名の作業員が作業中で、あたかも工事現場のような感じを抱いた。なお、担当者の説明の途中で作業員は引き上げていった。

     
 定刻前の会場の様子   木造製の基壇を前にして


  定刻になり主催者から挨拶がされたのち、見学者は3グループに分かれてそれぞれの担当者から場所を変えて説明を受けた。筆者のグループは、はじめに3つの基壇に面して左の基壇(阿弥陀堂)と中央の基壇(二階堂)の間で説明を聞き、次に左の基壇の左後方にある小高い見晴らし台のような場所から説明を伺った。眼下に永福寺全域がよく見渡すことができた。最後に右の基壇(薬師堂)と中央の基壇の間で説明があった。説明者が、分かりやすく親しみやすい態度で話をして下さったので理解しやすかったが、時折風の音にかき消されて聞き取れないこともあった。見学者は約2時間、吹きさらしの中で熱心に説明に耳を傾けていて関心の高さを示していた。
 

     
  熱心に説明を聞く見学者達  見晴らし台から見た永福寺の全域


永福寺の概要など
  ○ 永福寺は、『吾妻鏡』によると源頼朝が文治5年(1189)奥州藤原氏征伐で目にした平泉の毛越寺(もうつじ)や中尊寺に感銘して建立を思いたった。目的としては、義経や藤原泰衡をはじめ戦死した数万の将兵の怨霊を鎮めるためであったと伝えられる。
   これに対して、鎌倉市教育委員会の説明資料では、「創建時から仏堂に翼廊・中門・釣殿・庭園が造られ、都の寝殿造りの建物や庭園を彷彿とさせる華やかな住宅的な要素が組み入れられていました。このことから頼家・実朝を初めとする歴代将軍による花見・月見・蹴鞠などの、華やかな行事が境内で行われるようになって行きます。この華やかな行事を見ると、創建当初に目的とされた怨霊鎮護は感じられません。寺院と将軍家の迎賓館的な姿を併せ持った、京都や平泉とも異なる鎌倉の独自性を見ることができます。」とある。と言うことは、創建当初から目的が怨霊鎮護ではなかったのか、それとも表向きは怨霊鎮護としたが、本音は迎賓館的なものであったのだろうか。いずれにしても怨霊などに頓着しない頼朝の一面を垣間見たようだ。

 永福寺は、建久2年(1191)に着工し、翌3年11月に造営が終了したが、その壮大さは「絶妙比類無し」と言われている。 本寺は頼朝の権力の象徴であったのだ。

○ 永福寺は何度か火災があり部分的に延焼したが、その都度再建されたし大修理も行われた。
しかし、元弘3年(1333)鎌倉幕府が滅んだ後は寺勢が衰えた。応永12年(1405)に炎上したが、再建されることはなかった。『鎌倉年中行事』(享徳三年(1454))によれば近代永福寺回禄以後、「吉書始」に書かれなくなっている。(『鎌倉辞典』・白井永二著・東京堂出版)

○ 敷地面積はおよそ9㌶である。創建当時の伽藍(注1)は、中尊寺の二階大堂をまねた本堂と、脇堂の阿弥陀堂(左側)及び薬師堂(右側)の三堂を中心とし、さらに多宝塔、鐘楼、惣門、南門、僧坊、別当坊などが建てられていた。なお、三堂には複廊(廊下)、翼廊(注2)、中門、釣殿が造られ、三堂の前には、池が設けられ橋が架けられていた。その姿かたちは、浄土思想に基づく浄土世界を具現したものと言われている。
(注1)寺院の建築物の称  (注2)身廊と直交し、建物の左右に突き出した廊
                 永福寺配置図(鎌倉市教育員会説明資料から転写)

○ 今後の予定としては、池と庭園を復元し平成27年度中に史跡公園として開園する計画とのことである。しかし、堂や橋は外観を示す資料がないことから再建しないとする。残念な気がするが、学術的見地からとすればやむを得ないであろう。
 なお、CGによる復元想像図が基壇左側の通路に掲示されているので、当時の永福寺の概要があらあら理解できる。
      
    永福寺復元想像CG(鎌倉市教育委員会・作成:湘南工科大学長澤研究室)
 
   筆者の感想
今回の見学会に参加して得るものがあったと喜んでいる。筆者の感想の幾つかを列記する。

○ 鎌倉市教育委員会は、「基壇の公開により寺院のスケールを体感してほしい。」と言われていたようだが、確かに見学して永福寺の全体規模を体感することはできた。ただ、比類なきほど規模が大きいとは思えない。しかし、鎌倉の地形を考慮すれば大きい方に属することは事実である。

○ 復元想像CGを見ると確かに永福寺は壮大であり、またとても優雅な寺であることが分かる。ただし、あくまでも想像の域をでないことに留意する必要がある。

○ 永福寺には以下の特徴があると説明者が述べていた。
 ① 基壇が石製ではなく木製である。
 ② 3つの堂が、南向きでなく東向きであるあるが、これは地形の制約からではなくて意図的に行ったものである。
 ③ 3つの堂を複廊(廊下)でつないでいる。
 ④ 翼廊が付けられているが、3つの堂では今までに例がない。
  以上は、他との違いを意識して行ったもので、頼朝が権力を誇示したものであるという。頼朝は単に中尊寺をそっくり真似たのではなく、主張すべきところは主張していたことが分かる。

○ 永福寺は鎌倉の聖地であり、また、武家政権下の文(文化)を表しているとは説明者の言葉であるが、その様な視点があるのだと気が付かされた。

 

 ○ 三堂の中の「二階堂」の名称には違和感がある。脇堂は「阿弥陀堂」(左側)及び「薬師堂」(右側)と如来名を使用していながら、中央の本堂のみ建物が二階であるから「二階堂」である。中尊寺の二階大堂をまねたとはいえ、釈迦が安置されているとのことであるから「釈迦堂」とするのが本来であろう。「二階堂」は通称・愛称とすればよい。しかるに何故「二階堂」としたのだろうか。

○ 永福寺跡が平成27年度中に史跡公園として開園する予定とのことであるが、これで鎌倉の魅力の場所が1つ追加されることになる。歓迎すべきことである。(完)  
                                                                [文:木村髙久  編集:山口正枝]