那須国史跡めぐり

 
   2014.5.13~14  齋木 敏夫  
 
青木周蔵那須別邸(重文) 
  「道の駅明治の森黒磯」でバスを降り、木々の奥に進むと木造、外壁が鱗形スレートで白い洋館がある。青木周蔵の別邸で1888年に建築、1909年に増築されたものだ。彼は明治政府の外交官でドイツに長く滞在し、ドイツ人と結婚している。中に入り、彼の資料や那須野原開拓に関する資料、空間を広く使えるようにした支柱のない階段、畳の部屋等を見た。二階のベランダに出て遠くにある菜の花畑や一直線に伸びている杉並木等、素晴らしい景色を眺めた。玄関前から屋根裏部屋の切妻屋根の付いた窓等の外観も素晴らしい。

 

那須湯本
  バスを下りると異様な臭気が漂っている。遊歩道を進むと脇に大小の岩がごろごろしている賽の河原や千体地蔵があり、その先に〆縄のかかった「殺生石」(史跡)がある。陰陽師に正体を見破られ、退治された「九尾の狐」が大きな岩に姿を変え、怨念で有毒ガスを吹き出し、人や動物を殺すほどだったので「殺生石」の名が付いたとされる。鎌倉海蔵寺の開山玄翁和尚によって打ち砕かれ、岩は有毒ガスが少なくなったそうだ。なお 金槌のことを玄能というのは玄翁和尚のこの故事によるとのことだ。芭蕉も当地を訪れ「石の香や 夏草赤く 露あつく」の一句を残している。九尾の狐は中国神話に出てくる狐の妖怪のことで朝鮮半島や我国に伝来したようだ。橋を渡り、遊歩道を少し上ると温泉神社がある。飛鳥時代に白鹿を追い求め、谷に湧く温泉を発見して神社を建立したのが始まりと云う古社で延喜式内社だ。那須余一が屋島合戦の際に
当社に祈願し、見事扇の的を射抜いたと云う事で有名となった。本殿を眺めると一間社流造であった。

 

遊行柳
 陸羽街道の宿駅として栄えた芦野の遊行庵というお休み所でバスを下り、のどかな田んぼの畦道を歩くと
早苗の植わった田に蛙がいて、にぎやかになき、蓮華の咲いているところもあり、懐かしい感じとなった。少し広い「上の宮湯泉神社」の参道を進むと大きな柳の木があり、水田に影を映していた。「遊行柳」の
名は西行が訪れて詠んだ歌の「柳」を主題にして室町時代に「観世信光」が謡曲「遊行柳」を創作したこと
 に因んでいる。西行の時代には「遊行柳」とは言われないものの「柳」は自生していたようだ。又遊行上人
と云われた一遍も祖父河野通信の墓(北上市聖塚)を訪ねた際に立ち寄ったのだろうと想像した。周りに
西行歌碑や「田一枚 植て 立去る柳かな」という芭蕉句碑と蕪村句碑がある。 

 

 一町仏
  旗宿という集落でバスを下り、民家の間を通り、山裾を少し上ると石柵がある。中に3基の石碑があり、向かって右が古くから「一町仏」と伝えられてきた中世の供養塔で阿弥陀如来を表す梵字「キリーク」が彫られている。「吾妻鏡」に「先自白河関至于外浜 廿余ヶ日行程也其路一町別立笠率都婆...」と書かれており、藤原清衡が白河の関より北は外ケ浜に至る一町ごとに笠卒塔婆を立て梵字一字を刻んだというものだ。
  外ヶ浜は十三湊の方だと思っていたが津軽半島の東側のようだ。

 

白河の関跡 特別史跡名勝天然記念物
  東山道は7c中ごろに出来たもので当時白河関は蝦夷に対する重要な関門であった。平安中期以降奥州
 藤原氏の勢力範囲となり、その機能は解消し、関は廃止された。その遺構は長く失われて位置も分からなくなっていたが1800年白河藩主松平定信が文献による考証を行い、白河神社の建つ場所を関跡であると論じた。狛犬を見て鳥居をくぐり、石段を上ると式内社である白河神社がある。社殿は伊達政宗が造営と伝わり、拝殿は入母屋造、銅板葺、本殿は流れ造りで一部に九曜紋が見られる。江戸時代は二所関明神といわれ、
 相撲の二所関部屋発祥地だそうだ。境内には松平定信による「古関蹟」碑、源義家が白河の関を通過した時楓に幌をかけてしばしの休息をしたという「幌掛の楓」がある。義経が平泉を発し、戦勝祈願をして旗を立てたと伝えられる「旗立の桜」もあり、旗宿の地名の由来となったといわれる。「都をば 霞とともにたちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関」と詠んだ能因法師の歌碑等があり、芭蕉に同行した曽良の「卯の花をかざしに関の晴着かな」という句碑もある。空掘、土塁跡や「従二位の杉」という樹齢800年の見事な大木も見ごたえがある。近くの民家前に芭蕉の句碑「関寺の 宿を水鶏に 問はふもの」がある。

 

雲巖寺(ウンガンジ)
 山の向こうには坂東33観音の21番札所八溝山日輪寺がある。八溝の名は「日本武尊」が東征の折、当地へ来て山に登り「この先は闇ぞ」といったからとか弘法大師がこの地を巡錫し、この山に登ったところ八つの沢が見えたので「八溝山」と名付けたとかの説があるそうだ。臨済宗妙心寺派の寺院、1283年に時の
執権・北条時宗を大檀那とし、高峰顕日(仏国国師)が開山した。高峰顕日は後嵯峨天皇の第二皇子で鎌倉の円覚寺開山の無学祖元に師事し、鎌倉の浄妙寺、浄智寺、建長寺等の住職となり、門下には夢窓疎石が
 いる。16cに妙心寺派となった。松尾芭蕉が奥の細道紀行で立ち寄り、「木啄も庵はやぶらず夏木立」と詠んだ。なお芭蕉の師であり、当寺の住職であった仏頂が修行した岩窟を訪ねた時に詠んだ句と云われる。山門の正面にある朱塗りの反り橋を渡り、石段を登ると二重門がある。正面にある釈迦堂は江戸時代のものだが弓欄間、花頭窓、桟唐戸、粽(チマキ)柱等禅宗様の古い形を残している。境内は巨木に囲まれた静かなたたずまいの古刹で、紅葉に着く藻、ボタンや白山吹の花等を見て境内を散策した。

 

大雄寺(ダイオウジ)
 室町期の様式を今に伝える総萱葺き屋根の曹洞宗の寺、本堂・庫裡・禅堂・回廊・総門・鐘楼・経蔵などの伽藍はで県指定、経蔵以外はすべて茅葺となっている。石造の仁王像を見て、しゃがの花を見ながら石段を上ると山門、更に総門をくぐると住職が迎えてくれ、伽藍配置や寺の歴史について説明をしていただいた。回廊で囲まれた境内には大きなハンカチの木があり、白いハンカチのような葉を沢山つけていた。花はハンカチの中にあるそうだ。その他赤や黄等の牡丹があちこちに咲いていた。戦国期から江戸時代末迄黒羽城主あった大関氏の菩提寺で本堂の棟には「柊に囲まれた沢瀉(オモダカ)」の大関氏家紋が付いている。その後住職の案内で経蔵に行き、一切経を納めた輪蔵や聖観音立像、維摩居士、輪蔵を創始した傅(フ)大師の像を
見た。本堂では黒羽城郭図、板絵十六羅漢像(市指定)や「枕返しの幽霊」の掛軸を見せてもらい、禅堂では宝冠釈迦如来坐像を拝み、住職のお寺の復興に関しての苦労話を聞いた。入母屋造の鐘楼を見て境内を出た。

 

道の駅与一の里与一伝承館
  与一伝承館では「那須神社名宝展」が開催されており、中に入り、県指定の太刀を前にして学芸員の説明を聞いた。太刀は刃長が約60cm以上で腰から下げるものを指し、馬上での戦いを想定して反りが強く長大な物が多く、平安時代頃から作られ始め室町時代まで造られていたそうだ。その他長谷川等伯の曾孫である宗伯の描いた「八幡神像」等を見た。学芸員が那須神社も案内してくれた。

 

那須神社
 延暦年中に坂上田村麻呂が応神天皇を祀って八幡宮にしたと伝えられている古社、那須氏の崇敬篤く、
その後黒羽城主大関氏の氏神としてあがめられ、1642年に大関氏によって本殿・拝殿・楼門が再興されたようだ。楼門(重文)は入母屋造、三間一戸の隋神門で銅板葺、八幡宮と書かれた額の八の字が鶴岡八幡宮と同様に二羽の鳩が向かい合ったようになっている。礎盤、粽柱、詰組斗?等禅宗様だが挿し肘木や通し
肘木等は大仏様であり、折衷様式だ。青、緑、赤の色鮮やかな組物で飾られている。本殿(重文)は三間社、流造り、瓦棒銅板葺、妻飾りに大関氏の定紋である沢瀉の丸紋が飾られている。沢瀉の紋は徳川家康の母
 「於大の方」の実家水野氏の家紋で大関氏の初代の妻が水野氏の一派紀州田辺領主であった水野家から来ていることに由来するそうだ。

 

那須国造碑(国宝)
 762年造立の多賀城碑(重文)、711年の多胡碑(特別史跡)と並ぶ日本三大古碑の1つとされる。689年に那須国造で評督に任ぜられた那須直葦提の事績を息子の意志麻呂らが顕彰するために700年に造立したことが書かれている。「評」は701年以降「郡」となる古い表記で700年まで「評」が使われていた事例であり、六朝風書蹟の「古文書」として珍しいものであることから三大古碑の内唯一国宝となっている理由であるようだ。長年埋もれていたが1676年に発見され、徳川光圀が創建した笠石神社のご神体として祀られるようになった。宮司が説明をしてくれた後、宝形造(ホウギョウヅクリ)の覆い屋の扉を開けてくれ、ご神体で
 ある古碑を拝観することができた。

 

侍塚古墳群
  前方後方墳は出雲地方では古墳時代を通じて築かれ、かつて見たことがあったが東日本で見たのは初めて、前期古墳に多く存在するそうだ。東山道に面したこの辺りは侍塚古墳群と云われ、円墳、方墳など様々の古墳が点在している。下侍塚古墳(史跡)は5c初めに那珂川右岸に築造された前方後方墳、「那須国造碑」との関わりがあるのではないかとの推測から「水戸光圀」が発掘調査を命じたが、出土品はあったものの関係がないことが判明、埋め戻す際、墳丘の崩落を防ぐため、松の木を植えさせたそうだ。墳丘を登り、松の間から全体を見渡し形が良く残っているのが分った。庭に「はにわの武人」等の複製が飾られている資料館に入り、縄文時代中期の集落は後期へ継続せず規模や人口密度が減少した集落が新たに造られたことを知った。

 

 那須官衙遺跡(史跡)
  箒川を越えると那珂川町で風土記の丘資料館の駐車場でバスを下り、歩いて那須官衙遺跡へ行き、礎石などを見て赤く塗られた瓦葺の建物を想像して昔を偲んだ。風土記の丘資料館小川館では縄文時代から平安時代までの歴史と文化がわかるように古瓦や鏡などの遺物が展示されていた。 現在とは違いこの辺りが那須の中心部であったことを知った。
  
  
 

新潟の木喰仏と火炎土器

13.7.18~19

越後湯沢駅に11名が11時40分に集合、南越後観光バスに乗り旅が始まった。十日町に向かって峠を越えると清津峡への看板がある。清津峡は黒部峡谷、瀞峡と共に日本三大渓谷の一つで渓谷美と柱状節理の地形が見事であり、国の名勝、天然記念物に指定されている。以前に行ったことを思い出した。平野部に入ると穀倉地帯で稲の緑が美しい。

 

由屋
創業80年の老舗で切妻造、妻入りの大きなお店だ。駐車場は広く、評判の店らしく駐車して
いる車も多い。昼食は「へぎ蕎麦」、へぎ(片木)と呼ばれる剥ぎ板で作った四角い器に一口大に丸く盛ったそばであることから名づけられたそうだ。特徴はツナギに布海苔(フノリ)を使い、チョッと緑色がかっていることだ。テーブルの上には浅葱(アサツキ)が置いてあり、薬味としてった。歯切れと喉越しが良く、天ぷらは盛り沢山、大根の柴漬けも美味しい。食べきれないほどであった。店主の方針で御客さんが物足りなさを感じないように多めに出しているそうだ。一同満足して店を出た。

 

十日町市博物館
お目当ては火焔型土器だ。笹山遺跡出土の57点が国宝となっている。縄文時代中期から後期にかけての竪穴住居跡や炉跡から出土したものだ。鶏頭冠型土器や王冠型土器を学芸員の説明を聞きながら見学した。祭りや儀式などに用いる非日常的な土器と考えられているが外側に煤が付き、内側に焦げ付いた食物が見られることから煮炊きようにも使われていたそうだ。越後縮で有名な織物は縄文時代の織物、カラムシ等の植物繊維から作るアンギン織に起源がある。アンギンとは植物繊維を細い縄や紐にし、スダレや俵を編むのと同じ技法で作った編み布のことだそうだ。
博物館の前に遺跡広場があり、茅葺の竪穴式住居が復元されていた。

 

真福寺 
長岡市小国町は鎌倉時代から戦国時代にかけて活躍した小国氏発祥の地だ。摂津源氏の流れを汲む源頼行(源三位頼政の弟)を祖とする一族であり、鎌倉時代に当地の地頭となり小国氏を称した。 
バスは裏側の坂を上り、到着した。境内は山城跡と伝わる高台にあり、南北朝時代に小国政光がこの地を南朝方の拠点として活躍したそうだ。住職の案内により本堂に入り、ご本尊にお参りしてから岩座を模した木に座る金毘羅像を拝観した。薄暗くて頬被りをしているように見えるが実際には髪の毛を巻きつけているそうだ。名前はインドのクンビーラ(河の神)からきており、直接伝来したのが讃岐の金毘羅さんで西域を経由して仏像となったのが薬師如来の眷属(ケンゾク) 十二神将の一つ宮比羅(グビラ)大将だそうだ。
本堂裏の観音堂にある梨木観音は近くの家の庭にあった梨の立木に彫られたものを後に木を切り、当寺へ移し、お堂にお祀りした。蓮華座に合掌して座す聖観音で目が細く頬が膨らみにこやかなお姿だ。山門の仁王像はケヤキの木で造られた阿吽の像2m40cm余の高さがあり、相撲取りを思わせる顔の大きい量感あふれるものだ。石段を降りたところに「木喰五行菩薩安置の霊場」と柳宗悦氏の筆跡の碑がある。柳氏が大正10年頃当寺の木喰仏を発見し、世に知らせたそうだ。

 

小栗山観音堂
バスを下りると管理人の坂詰さんが待ってくれていた。観音堂は入母屋造、銅板葺、総欅造りで垂木が三軒(ミノキ)となっているのが珍しい。興福寺北円堂、南円堂が三軒の建物だ。早速堂内に上がり、木喰作の三十三観音と大黒天、行基菩薩像(いずれも県指定)を拝観した。本尊の如意輪観音像には大黒天像と行基菩薩像が脇侍となっている。俵の上に背中に担いだ大きな袋が垂れ、その上に大黒天が立つ像を見てユニークな発想に驚いた。痛みも少なく、微笑ましいお姿の像だ。如意輪観音像は2m41cmの大きな像で木喰の一木造りの像では真福寺の仁王像に次ぐ物、麓に有った大銀杏を苦労の末持ち上げてきて造ったそうだ。行基菩薩像は焼失前の観音堂に行基作と云われる観音像があったことに因んでいるのであろう。坂詰さんと一緒にいた広井さんが像の裏側を見せてくれ、木喰自筆の書を見せてくれた。裏書のない像は偽物だそうだ。

 

上前島の金毘羅堂                
近所の青柳さんが管理しており、声をかけて鍵を開けてもらった。秩父三十四観音と金毘羅像、木喰自刻像(いずれも市指定)を拝観した。像はいずれも子供たちが泳ぐ時の「浮き」にしたり、そりとして遊んだことにより表の摩滅が激しかった。特に自刻像は裏に背刳りがしてあり、丁度子供が座れる大きさでそりにして遊んだそうだ。庶民を愛した木喰にとっても子供たちから愛されて本望であっただろうと想像した。青柳さんの7代前の先祖は木喰に同行し、兵庫県の猪名川町の東光寺に行き、造像の手伝いをしたそうだ。古い記帳を見てみると6年前の8月4日に我々のサインがあったのを見つけなつかしく思い出した。

 

法華クラブ
5時半頃長岡駅近くのホテルに到着、小林さんもホテルで待っており、全員が揃った。一風呂浴びて6時半から隣接の「日本海庄や」で夕食となった。海鮮主体の料理でビールの乾杯の後地酒「吉之川」を飲み、ご機嫌となった。

 

翌朝 梶田さんと市内散策に出かけた。長岡駅付近が長岡城本丸跡で駅前の堀を埋めた道路を歩き始めた。道路の中心に融雪のためのスプリンクラーがあり、その水が鉄分を含んでおり、道路が赤茶色となっている。この融雪装置は長岡が発祥だと山ノ井さんに教えてもらった。「山本五十六記念館」がある。山本五十六は大観巨砲を重んじた海軍の中で航空機の重要性を説き、日独伊三国同盟に断固反対した。

又「国大なりといえども、戦いを好まば必ず亡ぶ。天下安しといえども戦いを忘れなば必ず危うし」という言葉は今の人達が知らなければならない言葉だと思う。「河合継之助記念館」は司馬遼太郎の「峠」を思い出させる施設だ。「民は国の本であり、役人は民が雇ったものである」旨の書が残されており、改めて彼の先見性のある言葉を思い出した。線路の下をくぐると長岡藩主牧野家の菩提寺玉蔵院の墓所があり、時代の異なる五輪塔が整然と並んでいる。駅近くに森が見え、近寄って見ると「如是蔵博物館」と看板がある。入ったことがないので内容はわからない。

 

散策を終え、バイキングスタイルの朝食を食べた。和洋の料理の品数も多く、地元の料理もあり、美味しかった。
8時30分バスに乗り、二日目の行程が始まった。

 

馬高縄文館
馬高、三十稲場遺跡(史跡)の広大な敷地の一角にある。火焔土器という名は昭和11年に馬高遺跡(5,000年位前の遺跡)で発掘された一個の土器(重文)に付けられた固有名詞でその形が燃え上がる炎に似ていることから名付けられた。その他の同種の土器は火焔型土器といわれる。これを有名にしたのは岡本太郎で「心臓がひっくり返る」感じを受け「そこに日本がある」と言ったそうだ。三十稲場遺跡は馬高遺跡より500年ほど新しい。縄文時代には珍しい蓋形土器や深鉢形土器が出土し、土器にお焦げが付着しており、祭祀だけでなく煮炊にも使われているそうだ。学芸員の懇切な説明により、よく理解できた。

 

寶生寺
住職が迎えてくれ、早速に木喰堂(収蔵庫)を開けてくれた。三十三観音(県指定)は木喰(1718~1810)が1804年87歳の時真福寺を経て当寺へ来て、庭の大銀杏の木から造ったそうだ。小さい自刻像を中心にして左右に如意輪観音が並び、後ろに三面の馬頭観音とニコニコと微笑んだ32の観音様が並んでいる。1体は明治13年の火災の際に紛失した。馬頭観音は観音としては唯一怖い顔をしているがこの像の一面はにこにこした顔となっている。この残り材で上前島の金毘羅堂の諸像を造ったそうだ。木喰は郷里山梨県の丸畑に四国堂を造り、四国88ケ所霊場の本尊88体を安置したが現在は散逸している。そして小栗山観音堂、寶生寺、上前島の金毘羅堂に100観音を安置した。これは庶民が四国めぐり、100観音めぐりを容易にでき、御利益を願っての造像であろう。
バスは出発し、長岡市を後にして柏崎市の西山地区に入った。田中角栄氏の出身地だ。

 

西光寺
西山町にある真言宗の寺、寺の前に大きな蓮池があり、赤い蓮と黄色い水連が咲き、きれいだ。冬には鴨と混ざり、白鳥もやってくるそうだ。入母屋造の本堂に入り、ご本尊を拝み、木喰作の十二神将像(市指定)の前に座り、全国木喰研究会の会長である遠藤住職の説明を聞いた。薬師如来坐像は金色であり、やや違和感もあった。十二神将は甲冑を着けたいかめしい像が多いがこの十二神将は鎧兜を付けた像が怒りを表わしているが髭を生やした自刻像に似た像や上半身裸の像は特有の微笑みが感じられる。
像は本堂の天井裏にしまわれ、昭和4年に屋根の葺き替えを行った際新聞紙にくるまれていたのが発見されたそうで保存状態がよい理由がわかった。

 

味楽庵 
切妻造、妻入、二階建、築130年の大きな建物で玄関はむくり屋根となっている。1日1組限定で家庭のおもてなし料理を出してくれる処だ。大きな仏壇のある部屋に座った。 最初に大きく、きれいな絵柄の皿に赤、緑、黄、白ときれいに盛りつけられた前菜がでてきた。最初ビールだけにしようと思っていたが次々に美味しい料理が出てきて当主でおもてなしまで一人でこなす石黒さんのすすめもあり、地酒を飲むに至った。あたかも親類の家の座敷で宴会をやっている如くであった。庭の眺めも素晴らしい。 

 

安住寺
柏崎市にある曹洞宗の寺、苔のきれいな境内には可愛らしい双体道祖神がある。本堂の桁は一本の通し杉、ご神木の根元が朽ちてきたので切り倒し、譲り受けたものでご自慢のものだ。
木喰三十三観音像は馬頭観音を除き、三十二体は彫の深い微笑のある顔ではなく、頬のふくらみもない平凡な感じになっていた。馬頭観音のみ元のままで微笑みを見てほっとした。
バスに戻り、柏崎から長岡に向かった。

 

旧長谷川家住宅
近世初期以降代々庄屋を勤めた旧家で豪農、周囲には巾2~4mの掘を巡らし、その内側には土塁生垣がある。表門(重文)は茅葺の長屋門、入口の周りは石垣を積み、お城を思わせる。門を潜ると正面に見える建物が主屋(重文)、1716年に再建された県内最古の建物、茅葺、寄棟造、下見板張、表玄関は破風が付き、蟇股で飾られ、式台玄関となり格式の高さを表わしている。入口に受付があり、説明を聞きながら建物の中を廻った。入って右側が広い土間で年貢米の計量場所として利用されていた。左側が座敷、無造作に氷で冷やす冷蔵庫が置いてある。上段の間、玄関の間、仏間の天井は竿縁(サオブチ)が床の間に向かって取り付けられている。これは床差しといい、武家屋敷には切腹時に使用する床差しの間があったことから一般には縁起が悪いとされている。この建物が建ってから以後にこの縁起が出来たのだろう。主屋よりも後の1793年に造られた「新座敷」(重文)を見てその奥にある「井籠蔵(セイログラ)」(重文)に入った。もち米などを蒸かす井籠の形をしていることから名づけられたようだ。入口にマンホールのようなものがあり、中に土と水が入れてあった。火事の時にこの土や水を使って蔵の隙間を埋めて、火の侵入を防ぐ為のものだそうだ。

 

裏にある収蔵品展示室で長谷川家に伝わる書画や調度品などを見学した。裏口から出るとすぐ近くに当地生まれの三波春夫顕彰碑があり、彼の銅像が建っている。ブザーを押すと「東京五輪音頭」や「世界の国からこんにちは」の歌が流れてきた。東京オリンピックや大阪万博を思い出しながら懐かしの歌を聞いた。
 すべての見学を終え、予定時間の15分ほど前に長岡駅で解散となった。

佐奈田霊社

 今年の1月に私が正枝のチャレンジの「てくてく散歩」の項目に「真田与一」について書いたところ、齋木さんからお便りを頂きました

平成24年5月22日

 

 源頼朝は1180年に挙兵し、石橋山で戦い、敗れた。その際に討死した佐奈田与一が祀られている寺で神仏習合色が強く、狛犬、鳥居がある。与一は三浦義明の弟である岡崎義実の長男であり、寺の紋は三浦氏の家紋となっている。
本堂に上がり、住職から寺の歴史について聞き、与一討死の地、畑の作物はみなねじれてしまうという「ねじり畑」や与一塚、文三堂(共に県史跡)を見学した。
文三家安は与一を2歳の頃から親代わりに育てた郎党で与一の後を追い討死したそうだ。境内に「常宮(ツネノミヤ)、周宮(カネノミヤ)お手植の松」の碑があり、よくわからなかったが箱根神社宝物館で明治天皇の第六、第七皇女であることがわかった

 

余談になりますが山口が書かさせていただきます。

 

 私も朱印帳を見ると平成15年8月に石橋山「佐奈田霊社」とに行きました。この神社はいまだ神仏習合の形態を残しています。社殿なのでしょうか本堂なのでしょうか、住職さんが出てきて「おあがりください」と言われ上がりました。そしたら佐奈田与一の話をかなり延々と詳しく時間をかけて説明をしてくださいました。本当に余り親切に説明してくださるので、お忙しいのに申し訳なく思い、お礼料として5000円払ってきました。

 しかし後から人に言われたのですが、この住職さん説明するのを商売としていると、きいて驚きました。

 

その時、佐奈田与一に関する話として横浜市栄区の金沢の「証菩提寺」の話が出てきて、この住職さんは月に一度そちらの寺に法要に出かけるそうです。そこで私はまた今年の2月に金沢文庫からその寺に行こうと思って出かけたのですが、駅のホームから円通寺東照宮が見え、証菩提寺に行くはずが、円通寺になってしましい、「円通寺東照宮」その記事を書いた次第です。齋木さんも円通寺東照宮についてお便りくださったのが下の円通寺なのです。

旧円通寺東照宮

平成23年2月21日

陶芸家の木村さんを一目見て住職のような又芸術家のような人と見た眼力はすごいですね。参考まで書院造は違い棚、床の間、付け書院、武者隠(または帳台構)から成り立っています。
旧円通寺客殿と六浦藩米倉氏について記します。
旧円通寺客殿は 横浜市の歴史的建造物 となっています。
金沢八景駅の西側にある茅葺の家で木造平屋、寄棟造、茅葺、1802年頃建立、江戸時代には権現山に東照宮が鎮座していました。東照宮は1660年頃当地の代官八木次郎右衛門が裏山を切り開き、東照大権現(徳川家康公)を祀って17石の田地を寄進したものと伝えられています。後に領主となった米倉丹後守も1802年、43年に社殿を造営しました。明治の神仏分離令によって円通寺は廃寺となり東照宮は明治11年に瀬戸神社へ合祀されました。茅葺の建物は円通寺の客殿で奥座敷の長押(ナゲシ)の釘隠しは「三つ葉葵」で飾られ家光が使ったという手あぶり火鉢などがあります。瀬戸神社にある石灯篭は金沢八景駅裏の権現山に祀られていた東照宮のもので、明治11年の神仏分離令によって瀬戸神社に移されたものです。
 境内から向って右側のものが高さ3m、六浦藩初代米倉忠仰(タダスケ) 1721年に東照宮に奉納したものです。米倉忠仰(タダスケ)は柳沢吉保の六男の米倉保教が、1712年米倉家の養子となってその遺領を継ぎ、六浦藩初代となった。なお 柳沢吉保の嫡男吉里が大和郡山城主であり、郡山と六浦が柳沢兄弟の縁で結ばれていた。

先月私が金沢八景の「円通寺の東照宮」ホームページを書いたものについて間違い・補足をしてくださいました。有難うございます。よい勉強になりました。


                                  齋木 敏夫
大崎八幡宮
坂上田村麻呂が宇佐八幡宮を胆沢城に勧請し、鎮守府八幡宮と称したことに始まり、室町時代に奥州管領であった大崎氏が本拠地(現大崎市)に遷したため、大崎八幡宮と呼ばれるようになった。大崎氏改易後伊達政宗が1607年に造営し、仙台城の鬼門に当たる現在地に遷座した。
バスを降り、少し歩くと長床(重文)がある。桁行九間、梁間三間、一重、入母屋造、こけら葺、正、背面中央に軒唐破風がつく。この唐破風には棟が付き、その上に屋根が付く珍しいものだ。
元来長床は修験道等における拝殿をさす。この建物は中央が通路になっている「割拝殿」の形式だ。割拝殿の例は石神神宮摂社の拝殿(国宝)、鞍馬の由岐神社拝殿(重文)がある。
それをくぐると豊国廟の建築を模したと伝えられる黒漆塗り、金メッキの金具が付く色鮮やかな社殿(国宝)が目に入った。権現造の名称は日光東照宮に始まるがそれ以前に造られた北野天満宮と共に古い例だ。拝殿は入母屋造、こけら葺、正面は千鳥破風、向拝は緩やかな曲線を描く唐破風、修理して間が無く黒漆塗り社殿、金色の懸魚(ゲギョ)や伊達家の家紋の雀等の飾り金具が桃山建築の華麗さを残している。拝殿横から石の間、本殿を見たら権現造の特徴である拝殿、石の間、本殿の屋根が続いているのがよく見えた。拝殿の前には角のある古風な狛犬が鎮座していた。

 

立石寺
860年に慈覚大師が開山と伝わる古刹、山寺の通称で知られ、境内は名勝史跡となっている。
お土産屋の駐車場で降り、雨が降りそうなので傘を持ってきた。石段を上ると根本中堂(重文)がある。1356年に再建された単層入母屋造、銅板葺のお堂、本尊薬師如来坐像(重文)が安置され、比叡山から移された不滅の法燈が600年以上も燃え続けているそうだ。中に入れず、堂前にある
「招福布袋尊」を「おびんずる」のようにさわった。
日枝神社にお参りし、秘宝館に入り、巨大な鰐口、木造釈迦如来立像、伝教大師座像(いずれも県指定)、木製曼荼羅懸仏、太刀などを見学した。芭蕉と曽良の像を見て登山口の山門からはいよいよ1015段の石段上りだ。
まず姥堂が目に付き、中を覗くと石像の奪衣婆(ダツエバ)と地蔵さんがある。せみ塚は「閑さや岩にしみ入る蝉の声」と詠んだ芭蕉の句碑だ。ゆっくりと上ってゆくと修学旅行の学生達が元気よく追い越して行った。
弥陀洞は岩場が風や雨の浸食で阿弥陀如来の外観のようになっているといわれているがよくわからなかった。「奇岩怪石」があり、幽境の聖域だなと感じられた。三間一戸の仁王門をくぐり、周りの景色を眺めながら上ると奥の院に到着、大仏殿には金ぴかな大仏があり、拝観した。少し下り右に進むと洞窟の中に覆い屋があり、その中に三重小塔(重文)がある。格子戸がつき、中はよく見えなかった。五大堂からは三方が眺められ、素晴らしい景色だ。断崖絶壁上の納経堂(県指定)や
開山堂を見て下り始めると雨が降り出し、滑らないように気を付けて降りた。

 

大崎八幡宮と立石寺

中尊寺と岩手の寺社めぐり

平成23年7月14日~16日

齋木敏夫氏

齋木敏夫氏は立派な膨大なレポートをお寄せ下さいました。

この欄には入りきれませんので、「正枝のチャレンジ」の横浜歴研番外編に掲載しましたのでそちらをご覧ください。

伊勢神宮

 

平成23年5月13日

齋木敏夫氏

伊勢神宮の記事楽しく読ませていただきました。近頃はパワースポットとして若い女性たちに人気のようですね。

以前訪れた時の小生の文章です。

 

伊勢神宮外宮(豊受大神宮)
 参道に向かう途中に大きな「お木曳車」が置かれていた。子供の頃近くの神社で神
宮の古材を貰いうけ、それを曳いたことが
あったのを思い出した。次回の遷宮は平成25年だが今年から準備を始めるそうだ。
外宮の参道は9時前でもあり人影はまばら、すがすがしい気持ちで参拝した。祭神は
豊受大御神で天照大神の食物の守り神であることから現在は産業の守り神といわれ
る。

豊受大御神で天照大神の食物の守り神であることから現在は産業の守り神といわれ
る。
 正殿は棟持ち柱のある唯一神明造、切妻、平入 屋根は茅葺、千木は垂直切、鰹木
は9本というが拝殿からはよく見えなかった。


二見浦
 土産物を売る店を通り抜けると海岸に出て、しばらく歩くと夫婦岩が見えてきた。
男岩と女岩があり、その間を「結界の縄」といわれる注連縄で結んでいる。この間か
らの日の出の写真をよく見かけるが実際には見たことが無い。紺碧の海に浮かぶ夫婦
岩、バックには青い空と白い雲、見飽きること無い景色だ。 興玉神社に参拝し、土
産に急須を買いバスに戻った。

 

神宮徴古館
 1909年の建築、ルネッサンス様式の鉄筋コンクリート造、平屋建、有形文化財
に指定されている。新春企画展「神宮の刀 第一回将軍奉納刀―家光から綱吉まで
―」が開催されており、早速見学した。
日本刀は武器としてだけではなく、芸術品として更に「草薙剣」に代表されるように
「霊器」として珍重されてきたようだ。鎌倉時代作の2振の重文があった。常設展で
は以前に内宮、外宮に奉納されていた御装束、神宝類や内宮の20分の1の模型等が
見られ結構面白かった。

 

猿田彦神社
 猿田彦大神は天孫降臨の際お迎えし、高千穂へ導かれ、その後伊勢に来て国土を開
拓し、その子孫大田命が倭姫命に土地を献上して伊勢神宮を創建したと伝わる古社
だ。参拝を済ませ境内を見やると幹がカボチャのようになっている木が目に付いた。

 

伊勢神宮内宮(皇大神宮)
 外側の鳥居は外宮、内側の鳥居は内宮の正殿の「棟持ち柱」の古材を使って遷宮の
度に建て替え、宇治橋も造り換えるそうだ。
参道を進み、五十鈴川で手を清め、一の鳥居、二の鳥居、神楽殿を見て列に沿って進
むと少し上がった所に正宮があり、漸く拝殿に御参りすることが出来た。正殿は外宮
と殆ど同じであるが千木が水平切り、鰹木が10本と1本多いそうだ。
帰りの参道も混雑していたが「御厩」から昨年天皇陛下が奉納なされた白馬「晴勇
号」が出てきて、境内の散策に出る所に出会った。

 

お陰横丁近辺
 宇治橋をわたり昼食場所の「すし久」までのお祓い横丁の混雑はラッシュアワー並
みで、余裕を見ていた時間が丁度約束の12時20分になっていた。「すし久」でま
ぐろの「づけ丼」のような「てこね寿司」をいただいた。近くに「赤福」の本店があ
り、土産に赤福を買いお陰横丁を散策した。鼓笛を鳴らして会場へ行く一隊、おかげ
座の幡、露天等結構楽しめた。駐車場に戻り、伊勢志摩スカイラインを通り、素晴ら
しい景色を眺め、金剛證寺へ行った。

 

金剛證寺
 仁王門をくぐり、連間(ツレマ)の池に掛かる朱色の太鼓橋を眺め、本堂摩尼殿(重
文)の前に行き、御参りした。1609年姫路城主池田輝政が造営、入母屋造、桧皮
葺、朱色の鮮やかな建物だ。徳川家康の寺領寄進もあり、葵の紋が付いており、かつ
ては内宮の内院といわれ、伊勢神宮との結びつきも強かったそうだ。宝物殿に入り雨
宝(ウボウ)童子像(重文)、経筒(国宝)、源義朝佩刀(重文)、九鬼嘉隆画像(重文)
等を住職の説明を聞きながら見学した。雨宝童子像は平安時代の檜の一木造、唐服で
頭に五輪塔を載せた姿、弘法大師が天照大神を感得し刻んだといわれ、珍しい像だと
思った。

 

伊雑(イザワノ)宮
 伊勢志摩スカイラインからの景色を楽しみながら下り、鳥羽市内を通過し磯辺町に
ある皇大神宮別宮の伊雑宮へ行った。
 御田植式(重要無形民俗文化財)の行われる御神田(オミタ)を横に見て鳥居をくぐ
り、拝殿に参拝した。唯一神明造り、水平切の千木が高くそびえ、鰹木が6本の社殿
をここではよく見ることが出来た。
 伊勢神宮遷宮後の古材を使い、翌年に遷宮するそうで、規模は小さいが古殿地があ
る。

松本城

平成23年5月4月25日

 

4月19日に桜満開の松本城へ行きました。

黒門から城内に入ると五層の天守閣と満開の桜が目に入った。下を見ると向井千秋さ
んがスペースシャトルに持ち込んだ種から育てられた「宇宙ツツジ」がある。松本城
は信濃の守護小笠原氏の支城であったときには深志城と呼ばれていたが武田氏、木曾
氏の後本能寺の変の混乱に乗じて小笠原氏が奪還し松本城とした。
渡櫓から入り、乾小天守の手斧(チョウナ)削りの丸柱を見て、矢狭間から本丸広場を覗
き、武者走りの廊下を通り、千鳥破風下の格子を見、急な階段を上って天守閣の最上
階にたどり着いた。井桁に組まれた梁や垂木等の小屋組み、二十六夜神を眺めて階段
を下り月見櫓を見て外へ出た。
天守閣と乾小天守には鉄砲狭間、矢狭間、石落しが多くあるのに対し、辰巳附櫓と月
見櫓には戦に対する備えが無く、回縁には朱塗りの欄干が付き、建築時の世相の違い
が良くわかる。寛永年間(松平直政時代)に3代将軍徳川家光の善光寺参詣が計画さ
れ、将軍を迎えるために松本城を増築したと伝えられており、朱塗りの回縁や船底型
の天井があり、書院風の造りとなっている。
満開の加藤清正ゆかりの「駒つなぎの桜」を眺め、埋門から出て朱塗りの欄干の付い
た埋橋(ウズミノハシ)を渡り外へ出た。
北に進むと1873年に建てられた旧開智学校(重文)、二階の屋根に唐破風が付き、塔屋
は八角形で回縁を廻らせ和洋折衷の建物だ。